近藤勇生誕の地を巡る_生家跡や近藤神社

今年、初めて近藤勇の生家跡に行って参りました。

 

雪がちらつく寒い日でしたが、ここで近藤さんが生まれ育ったんだなあ…と思いながら空気を味わってみたり。

f:id:karu_miburo:20190323194250j:plain近藤勇生家跡

[所在地]

東京都調布市野水1-6-8

[アクセス(バス)]

JR三鷹駅から約20分
野川公園入り口で下車、徒歩1分

 

 

近藤勇とは

 近藤勇は天保5年、宮川久次郎の三男として誕生します。幼名は宮川勝五郎。

久次郎は、この屋敷に寺子屋や天然理心流武術の道場を持っていました。

勝五郎も15歳の時に2人の兄とともに近藤周助の天然理心流に入門します。

翌嘉永2(1849)年には才を見込まれ、周助の実家である嶋崎家に養子に入り、嶋崎勝太と名乗りました。

その後、正式に近藤家と養子縁組をして嶋崎勇と名乗ったのちに近藤勇と名を改めます。

万延元年(1860)年に松井つねと結婚し、文久2(1862)年には長女のたま(瓊子)が誕生しましたが、翌文久3年に勇は土方歳三や沖田総司らと浪士組に参加し京に上ります。

 やがて新選組の局長となった勇でしたが、戊辰戦争の最中に新政府軍に捕えられ、板橋にて斬首となりました。享年35歳。

 

近藤勇生家跡 

f:id:karu_miburo:20190323213024j:plain近藤勇生家跡

生家"跡"なので建物は残っていません。

 

太平洋戦争の際、軍による調布飛行場建設が行われ、飛び立つ戦闘機の妨げになるという理由で昭和18(1943)年に取り壊されてしまいました。

その調布飛行場は今も生家跡の近くにありますが、飛行場そばの公園には、戦闘機を空襲から隠していた掩体壕(えんたいごう)が残されています。

 

歴史を感じる場所ですが、貴重な生家が取り壊されてしまったのはとても残念ですね…。

 

ただし、近藤勇が産湯に使ったとされる井戸は残されています。f:id:karu_miburo:20190323201749j:plain近藤勇 産湯の井戸

宮川家では、生家が取り壊されるまで、実際にこの井戸を生活用水として使用していたそうです。

 

f:id:karu_miburo:20190323213840j:plain説明板

屋敷の広さは約2,120坪(約7,000㎡)と広大でした。

主屋のほかに納屋、蔵屋敷や文庫蔵があり、敷地内には欅や樫などの大木や竹林が茂っていたそうです。

 

ますます実物を見たかった…!!!

 

ですが!

調布市郷土博物館には生家の復元模型が展示されているとのこと♪

 

ただ今回は時間が無かったので断念…(泣)

生家跡から調布市郷土博物館まではバスと徒歩を合わせて40分ほどかかるので、時間のある時に必ず行きたいと思います!

 

近藤神社

 f:id:karu_miburo:20190324131234j:plain近藤神社

生家跡の敷地内には近藤神社があります。

昭和元(1926)年に東京一円の軍人たちによって建てられたもので、近藤勇が祀られています。

 

近藤さんや新選組隊士たちの御魂が安らかに眠れるようにお参りしました。

 

撥雲館

f:id:karu_miburo:20190324141355j:plain f:id:karu_miburo:20190323212840j:plain

近藤勇生家跡の道を隔てて向かい側には撥雲館があります。

 

勇の兄・音五郎の次男であった宮川勇五郎は、勇の娘・たま(瓊子)の婿養子として近藤勇五郎と名乗るようになりました。

 

天然理心流は勇五郎が継承し、明治9年に屋敷内の納屋を道場に改築しました。

この道場が「撥雲館」です。

 

撥雲館という名は、ここを訪れた元幕臣の山岡鉄舟が「暗雲を取り除く」という意味を込めて命名し、看板に揮毫したと伝えられています。

 

最盛期には門人が3000人もいたといいます。

 

手狭になった道場は昭和7年に屋敷の北側の空地に改築されました。

その後、調布飛行場の建設に伴う屋敷の取壊しの際にも、門人たちの熱意によって道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峰岸家の土地に移築されました。

 

さらに戦後、人見街道の拡幅のため再移転する際に、現在の場所に移築され今日まで至っています。

 

昭和50年代まで稽古が行われていたそうですが、現在は使われていません。

 

でも、どこからか天然理心流の激しい稽古の声が聴こえてくるようでした。