真武根陣屋(請西藩屋敷)跡と林忠崇
ブログ開設!!
さあ、新選組について書こう!
…と、いきたいところですが
少しだけ脱線。(((え
でも全く関係ないわけではなく、幕末の史跡についてです。
というのも、思い立って真武根陣屋跡に行ってきました。
真武根陣屋跡って何??という方もかなり多いと思います。
私も近くに引っ越してから初めて知りました…が!!
なんと私が新選組以外では一番好きな幕臣である伊庭八郎とも関係のある場所なんです!
伊庭八郎は幕末好きの方は知っている人も多いですよね。
そしてこの真武根陣屋、タイトルに書いている通り「請西藩」のお屋敷でした。
この請西藩の藩主である林忠崇も調べれば調べるほど好きになりまして。
ずっと行きたいと思いつつ、お天気の良かった先日、遂に行って参りました。
真武根陣屋跡って?
真武根陣屋跡は千葉県木更津市請西1139-33にあります。
山というほどではないですが、坂を上っていくので徒歩は少し辛いかも。
案内板も見当たらず不安になりながらもやっと到着!!
しかし跡地というだけあって石碑しかありません。
観光客もほとんどいません。
写真の通りお天気が良かったのですが、この日も私だけでした。
なんとも寂しいものですが、石碑しかないこの場所も歴史を知ると見え方が変わると思います。
請西藩真武根陣屋は徳川幕府譜代大名の林忠旭が嘉永3年(1850)に上総国望陀郡請西村に造営しました。
移転元の貝淵陣屋は「下屋敷」、真武根陣屋は「上屋敷」と呼ばれ、藩の名前も移転に際して貝淵藩から請西藩に改められています。
石高1万石という小さな藩でしたが、代々若年寄など幕府要職を務める家柄でした。
林忠崇
慶応3年(1867)に3代目として林忠崇(はやし ただたか)が20歳で請西藩主を継ぎます。
しかし時は幕末。
その年の10月、大政奉還が行われ、徳川家は政権を朝廷に返上することになりました。
代々徳川に仕えてきた林家。
忠崇も戦うことを決意しますが、徳川慶喜が恭順を示したため、忠崇も一時は恭順を示して請西藩へと帰りました。
しかし江戸を脱走してきた伊庭八郎や人見勝太郎などの遊撃隊が藩邸を訪れ援助を要請します。
そこで忠崇がとった行動……それは、
藩主自らの脱藩!!!!
そして出陣の際に屋敷に自ら火を放ちました。
こうして真武根陣屋は消失。
わずかな遺構も昭和20年に戦後の農地改革で開墾され、壊されてしまいました。
忠崇は従ってきた藩士や遊撃隊とともに転戦を続けます。
藩士の中には諏訪数馬という、これまた泣かせる男もいるのですが…
どんどん脱線してしまいそうなので、そのお話はまたの機会に。
さて、転戦を続けた忠崇でしたが、徳川家が駿府70万石の諸侯として存続するという一報を受け、仙台で降伏します。
忠崇の行動は当然新政府の怒りを買い、請西藩は戊辰戦争に於いて改易された唯一の藩となってしまいます。
その後の忠崇
忠崇は幽閉され後、1872年に赦免されますが、かつての身分を失い職を転々とする人生を歩みます。
しかし明治26年(1893年)に旧藩士による林家の家名復興運動があり、忠崇も華族となります。
晩年は娘と同居し、1941年に92歳で逝去。
存命していた最後の大名でした。
死の間際、辞世の句を求められると
「明治元年にやった。今はない」
と答えたとか。
その明治元年の辞世の句がこちら。
『真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ』
私に真心があるかどうかは、(切腹して?)腹から出る私の血潮の色で分かるだろう
という意味ですかね。
………上手いかどうかはさておき、
真っ直ぐな人柄が伺える句だと思います。
新選組ファンとしては、分かりやすい句で土方歳三に通ずるものを感じます(笑)
まとめ
本当に熱く実直な男ですよね。
彼を愚かだと言う人もいるかもしれません。
歴史の上では確かに敗者かもしれません。
でも、私は好きですね、林忠崇。
あまり有名ではありませんが、私としてはもっと作品の題材として取り上げられてもいい人物だと思っています。
そして今回訪れた陣屋跡。
ただの石碑しかない場所だと思われがちですが、
屋敷が無いのは藩主である忠崇が自らが焼き払ったから。
そう思うと、何だかこの場所の見え方が変わってきますよね。