沖田総司の容姿とは
前回の記事で沖田総司の容姿についてもまとめると言っていたので有言実行!
沖田さんは私が一番好きな隊士です。
むしろ一番好きな歴史上の人物です。
新選組でも精鋭部隊の一番組の組頭を務め、若くしてこの世を去った彼は様々な作品で美剣士として描かれてきました。
しかしあの肖像画が広まったことで近年では不細工だったと言われることもあるのですが…
※肖像画についてご存じない方は「沖田総司 肖像画」で検索してみてください。
一体、実際の沖田総司はどのような容姿をしていたのでしょうか。
いくつかの証言からその実像に迫っていきたいと思います。
ちなみに私は普段から沖田総司を「沖田さん」と呼んでいますが、今回の記事では沖田家の人物が数名でてきて「沖田さん」だらけになってしまうので(笑)、以降は「総司」と記載します。
肖像画について
まずは例の下膨れの肖像画についてですが、あれは総司ではありません!!
と強く否定させて頂きます(笑)
あの肖像画は沖田さんの姉:ミツさんの孫にあたる沖田要さんをモデルにした肖像画です。
沖田要さんはミツさんに「どこか総司に似ている」と言われていたようで、このことから要さんをモデルに、昭和4年に『剣士沖田総司』という作品で総司役の役者がしていた髪型を合成し描かせたものです。
「どこか似ている」というのであれば、やはり肖像画は沖田総司に似ている!?
と思うかもしれませんが…
要さんの写真を拝見したことがあるのですが、この肖像画よりもっと後年の写真とはいえ、あまりにも肖像画と似ていない気が…(((汗
あくまで個人の感想ということを大前提として、
そもそもモデルとなった沖田要さんにも似ていません!笑
そしてこれから書くことになりますが、伝わっている沖田総司の容姿とこの肖像画はかけ離れていると思います。
また、ミツさんは「どこか似ている」と言っただけで「そっくり」だとは言っていないんですよね。
若くして亡くなった弟の面影を要さんに重ねていたのではないでしょうか。
「似ている」のが顔だったのか背格好だったのか性格だったのか分かりませんしね。
しかし、近年のテレビ番組でもこの肖像画を沖田総司として使用しているのをよく見かけます…。
どうしても総司のイメージ写真を番組で使いたいというテレビ局関係者の皆様!
京都の霊山歴史館で沖田総司のブロンズ像が作られたのでそちらの写真をご使用ください!
ヒラメ顔説
沖田総司はヒラメ顔だった____。
そう聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。
このヒラメ顔という証言はどこからきているのかというと、
土方歳三の義兄で新選組になる前から近藤たちとの交流も深かった佐藤彦五郎の曾孫・佐藤晃氏が、NHK教育テレビ「偶像の周辺」で日野の郷土史家・谷春雄氏の話にのって、テレビを面白くするためについ口走ったのが始まりとされています。
以下、私は実際にその番組を観ていない為、森満喜子氏の著書「沖田総司・おもかげ抄」より該当の発言部分の記述を引用させて頂きます。
沖田は快活で非常によく笑う男だったと伝えられています。容貌についての言い伝えは色の浅黒い、目の細い___私のぢぢいなどは魚の鮃みたいな顔をしていたとこう言っているんですがね
佐藤昱談___森満喜子「沖田総司・おもかげ抄」
そもそもヒラメって丸い目ですよね(笑)
佐藤昱氏のその後の証言は見つからなかったので、本当に佐藤家でそう言い伝えられていたのか確証はありません。
谷氏はのちに総司のヒラメ顔について、「のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているから」と語っています。
しかし谷氏は一族の写真をもとにしたようですので、総司自身の容姿を述べたわけではありません。
特に沖田家はとても複雑で、実は未だに家族構成について詳しいことが分かっていません。
定説では
「総司は沖田勝次郎の嫡男で、両親とは幼い頃に死別し、次女は早くに嫁にいっていたので長女のミツが井上林太郎を婿にとって沖田家を継ぎ、幼少の総司を育てた」
とされてきましたし、これを採用している作品がほとんどです。
しかし姉のミツについて、井上家の子であると読み取れる手紙も発見されています。
また、沖田家は「二人の林太郎によって継がれた」という話も伝わっており、ミツが林太郎と結婚する以前に別の林太郎(林太郎というのは世襲名でしょうか)が沖田家を継いだということになります。
この通り、沖田家は定説とはかなり異なる姿であった可能性が高いのです。
発見された手紙の通りミツがもともと井上家の子であり、総司は沖田勝次郎の嫡男であったとすると、ミツと総司は実の姉弟ではなかったということになります。
逆に実の姉弟であったのなら、総司は井上家の出身であったのかもしれません。
ミツに似ていたとする伝承もあるようですが、一方で林太郎と瓜二つであったという証言もあります。
あまりに複雑な家系ですので、沖田家の誰かの写真をもとに総司の容姿をイメージするのは難しいといえます。
ただ、総司の母は宮川家の出身だったという話が伝わっているので、参考にするのであれば宮川家ですかね。
こちらは目がぱっちりとした家系のようです。
八木為三郎の証言
新選組の最初の屯所であった八木家の当主、八木源之丞の息子であり、新選組がいた当時はまだ子供だった為三郎が後年、総司についても語っています。
沖田総司は、二十歳になったばかり位で私のところにいた人の中では一番若いのですが、丈の高い肩の張りあがった色の青黒い人でした。よく冗談を言っていて殆ど真面目になっている事はなかったと言ってもいい位でした。
八木為三郎翁談___子母澤寛「新選組遺聞」
為三郎さんは実際に総司と会っていた方なのでこの証言は貴重ですね。
「私のところにいた人の中では一番若い」とありますが、総司の生まれ年には諸説あるとはいえ、初期からいる隊士でも藤堂平助や斎藤一が同じ年齢、もしくは2人の方が若いです。
為三郎さんは当時ほかの子供たちと一緒に総司に遊んでもらっていたというので、印象が強かったのか、それとも総司が他の隊士より若く見えたのでしょうか。
ただし、これらの証言は為三郎翁が子供の頃の話を晩年語っているものなので、記憶が確かであるとは限りません。
永倉新八も晩年に記した手記の中には明らかに記憶違いと思われる部分もあるので、為三郎翁の話の中にも記憶の混在はあり得ます。
しかしそれを踏まえても貴重な証言であることに違いはないでしょう。
三本木蜜雄の証言
八木為三郎翁の証言で総司は背が高かったとありましたが、その具体的な身長について、二本松藩士の三本木蜜雄さんの証言が又聞きとして伝わっています。
三本木さんの話によると、総司は背はあまり高くなかったそうです。
この時点で為三郎翁の話と食い違うのですが、三本木さんは並んだ時は横を向いて話し合ったといいます。
しかしこれは三本木氏にとっては高くなかったということかもしれません。
なぜなら、三本木氏の身長は5尺5寸でした。
これは約166.6cmで、当時の平均身長が155~158cmとされているので、平均身長を10cmほど超えています。
土方歳三は近藤勇より髷の分だけ高く、5尺5~6寸であったと言われているので、彼も167cm程度であったと思われます。
土方と総司が同じくらいの身長であったとすると、総司は著しく高くはないものの、やはり当時の平均身長からは高い部類であったのではないでしょうか。
また、剣術においては身長が高い方が有利ですし、力も必要ですので、総司は剣に長けた人物であったことからも背が高かったというのは頷けます。
一方、沖田家には総司は「色の白い小さい男」であったと伝わっているといいます。
これは後世の人が創作の沖田総司のイメージを壊さない為に言った可能性があるかもしれませんが、もし仮に事実であったとするなら、総司が子供の頃の話ではないでしょうか。
沖田家は決して裕福ではなかったですし、幼い頃は小柄だったかもしれませんね。
それが試衛館で剣術を学び、成長するにつれて背丈も伸び、出稽古も行っていたので日焼けした___そう考えると、まだ病に侵されていない元気だった頃の彼の姿が眩しく浮かび上がります。
子母澤寛著「新選組遺聞」より
子母澤寛は当時の新選組を知る方々などに話を伺い、「新選組始末記」に始まる新選組三部作を発表したことで知られています。
著書には貴重な伝聞が多く書かれており、前述で引用させて頂いた八木為三郎翁の証言も著書「新選組遺聞」に掲載されたものです。
この「新選組遺聞」では、八木為三郎翁の証言とは別に、沖田総司の話において以下のように記載されています。
丈の高い痩せた人物、肩がぐっと上がり気味に張って、頬骨が高く、口が大きく、色は黒かったけれども、何処かこう、いうに云われぬ愛嬌があった。
子母澤寛「新選組遺聞」
八木為三郎翁の証言と重なる部分もありますが、頬骨が高く口が大きいという点は為三郎翁が子母澤さんに語ったものなのか、それとも子母澤さんが付け足したものなのかは不明です。
子母澤さんは三部作において一部創作が含まれることも認めていますし、証言をそのまま記載している部分もありますが、あくまでも物語ですので全体を通して想像で人物や会話を描いてもいます。
その為、どこまでが実像でどこからが子母澤さんの創作なのか線引きが難しいですが、新選組の資料としても貴重である彼の著書にある記述として紹介させて頂きました。
口が大きく、というのは、よく笑っていたのでそう見えたのかもしれませんね。
森満喜子著「沖田総司おもかげ抄」
総司の身長についての三本木さんの証言も森満喜子氏の著書「沖田総司おもかげ抄」から引用させて頂きましたが、更にこちらの著書には読者から寄せられた興味深い話があります。
読者のお母様が若い頃に着物の勉強をしていて、京都の呉服屋の隠居のところにたびたび通っていると、当時90歳くらいで存命だったそのご隠居から、行くたびに繰り返し総司の話をされたといいます。
読者のお母様は沖田総司に興味はなかったけれど、ご隠居があまりにも熱心に同じことを話すので覚えてしまったらしいです。
そのご隠居が14か16歳のときに、総司が複数の侍に囲まれながらも一人でその侍たちを倒し、見物人に騒がせた詫びとして目礼をした姿に一目惚れをしたといいます。
その時の斬り合いの状況やその後に彼女が総司と再び会うまでの話はここでは割愛しますが、ご隠居は総司について以下のように語っていたそうです。
色が黒いのに肌がきれいな人でね、透き通るようでしたよ。
肌が黒かったというのは八木為三郎翁の証言と一致します。
でも肌が綺麗なんて羨ましいですね(笑)。
沖田さんはいつも明るく笑っていて、市中を集団で歩いているのを見かけた時も笑顔を見せない時がないといっていいくらい。でも、補物となると悲痛な表情で、強いけれども情のある人だったんでしょうね。とても人を斬る人には見えませんでしたよ。眼がパッチリして笑うと八重歯が見えてかわいらしい童顔で、京でも評判がよかったようです。土方さんもいい男でしたが、私は沖田さんの方が好きでしたね。
前述で「目が細い」という話がありましたが、ご隠居の話では目はパッチリしていたということです。童顔というのも、やはり為三郎が「隊士の中で一番若い」と勘違いした要因でしょうか。
そして土方さんより沖田さん派のご隠居(笑)。
「私は○○さん派やわあ」なんて当時の京の女子たちは騒いでいたのかもしれませんね。
いつも紫の元結できちんと髪を結っていて、あの人が髪を乱しているのなんか見たことありませんでした。とても清潔でね。
髪は浪士髷、当時の流行でした。
紫の元結というのは現代ではなかなか見かけませんね。当時は流行だったのでしょうか。清潔を心がけ、流行の紫の元結をしていたのだとしたら、彼はなかなかお洒落さんだったのかもしれませんね。
髪型については、浪士髷というだけではあまりに括りが大きく、詳細な髪型は分かりません。当時の「浪士髷」というのがどういった髪型を指すのか分かる方がいらっしゃればぜひ教えて頂きたいです。
ただし当時の流行ということであれば、よく時代劇でも総司の髪型として採用される細く剃った月代に後ろで引き結んだ髪型でしょうか。
もしくは近藤勇のように総髪であったかもしれません。
当時の浪士たちはお金が無かったこともあり月代を剃らない髪型が普及していました。
新選組の給料が高かった全盛期ならともかく、それ以外の時期は総司も頻繁に月代を剃るお金は無かった可能性があります。
細く剃った月代もしくは総髪でいわゆるポニーテールのような髪型であったか、総髪で髷を結っていたか。考えられる髪型としてはこれくらいですかね。
着物は紺地にこまかい柄、夏は白地に紺のこまかい柄を好んで着ていました。感心したのは袴の折り目がきちんとしている事で、他の隊士はよれよれの袴をはいているのに、あの人だけはとてもきれいな袴をはいているのです。
新選組にいるのにあの羽織を特別の時しか着ないのですよ。他の人はみなあの制服の羽織を着ているだけで市中でも顔がきくから、きまって着ていたのにねえ。新選組らしくない人でした。そこがあの人の良いところです。
ご隠居、総司にベタ惚れです(笑)。
新選組の羽織はあまり使用されなかったとも言われていますが、ご隠居が沖田さんに出会ったのは新選組がまだ壬生に屯所があった頃のようなので、羽織を着用する隊士も多かったのでしょうか。
顔がきくということは、池田屋事件より後の時期かもしれません。
服装は直接彼の容姿に繋がるわけではありませんが、袴の折り目がきちんとしていたということからも、総司はやはり綺麗好きだったのでしょうか。
近藤は藤堂平助の態度を時折叱っていたと言いますが、総司の場合は永倉や藤堂のように自ら食客として試衛館に居ついたのではなく、子供の頃に内弟子として預けられたので、そういった立場からも身だしなみに気を遣っていたというのもあるかもしれません。
ただし、このご隠居の話はあくまで森満喜子氏のもとに寄せられた総司ファンの手紙に書かれていたことなので、新選組の"資料"としての価値は低いと言わざるを得ません。
この話が偽りである可能性も十分あります。
しかし引用させて頂いた総司の容姿に関する話以外にも、この手紙には詳細な記述が多く、もし真実であるならばとても貴重な証言だと思います。
意外とモテた総司
近藤勇五郎は総司について「あまり女遊びをしなかった」と語っています。
しかし、京で町医者の娘と恋仲になったそうです。
その娘とは近藤が手を切らせた為、添い遂げることは出来なかったようですが、総司に恋人がいたということになります。
また、総司に告白をした女性の逸話があります。
その女性は総司に「修行中の身ですので」と断られると懐刀で喉を突いたそうですが、命は助かり、近藤が他の男性のもとへ嫁がせたといいます。
更に、この記事で前述した呉服屋のご隠居は、総司に恋をしていた当時、親しかった女性で同じく総司に思いを寄せる人がいて、よく二人で総司を取り合って喧嘩をしていたそうです。
土方歳三は京で女性にモテて困るという自慢の手紙を故郷へ送っていますが、その手紙に出てくる女性は遊女たちばかりです。
一方、総司の場合はあまり女遊びをしなかったということもあり、伝わっている話に出てくる女性は町娘が多いですね。
総司自身に自覚があったのかは分かりませんが、恋仲になった女性も含めて4人ほど彼に思いを寄せていた女性の話が残っているのはかなり凄いことではないかと思います。
「美男であった」という記録は無い総司ですが、意外にモテていたことが分かります。
彼の性格の魅力ももちろんあったのでしょうが、「愛嬌がある顔立ち」という証言からも、彼は人好きのする容姿だったのではないかと思います。
イケメンではないけど女性に人気のある男性っていますよね。そんなタイプだったのかもしれません。
まとめ
複数の証言から、沖田総司は「色白の美剣士」ではないけれど、よく見かける肖像画の容姿とも違う実像が浮かび上がりました。
彼の写真は見つかっていませんが、総司の姉のミツが総司の写真について「(妹の)キンの文机の引き出しにある」と証言したことがあります。
その証言をもとに新選組を研究しておられる方々が文机を調べましたが、そこに写真は無かったそうです。
家を建て替える時に家財道具などと一緒に燃やした可能性があるとか…。
もしそうだとすればとても残念ですが、近年も新選組に関する新たな発見は続いていますし、総司の写真はまだどこかに眠っているかもしれません。
少なくとも総司が写真を残していた、というのは彼の容姿がいつの日か分かるかもしれない大きな希望です。
もちろん、容姿が分からないからこそ我々は彼を知りたいと思い、その謎の多さが彼の魅力のひとつとなっているのでしょう。