こんにちは。かる丸です。
以前、千葉県木更津市にある真武根陣屋跡の記事の中で、藩主でありながら脱藩した林忠崇に従って共に戦った"諏訪数馬"という男がいるとご紹介しました。
この記事では諏訪数馬についての詳細は割愛したので、今回は彼について詳しくお話しさせて頂きます。
時々新選組から脱線する当ブログですが、幕末ということでお許しください(笑)
諏訪数馬とは
天保6(1835)年に生まれます。
父・諏訪幸右衛門は藩主の林忠英と忠旭の二代に仕えていました。
嘉永2(1849)年9月4日に幸右衛門が亡くなると、貝渕陣屋の陣代を務めた祖父に養われます。
数馬はやがて十六代請西藩主・林忠交の近侍となりました。
その後、本所松井町の中西福太郎の娘・せいと結婚。
二人の間には 息子・篤太郎が誕生します。
慶応3(1867)年6月に忠交が亡くなると、忠崇に仕えるようになります。
しかし数馬は生まれつき病弱で、本人もそのことを嘆いていました。
藩主・林忠崇への忠義
慶応4(1868)年閏4月、幕府遊撃隊の伊庭八郎らの要請を受けた忠崇は、藩主自ら脱藩して幕府軍として闘うことを決意します。
この頃、数馬は労咳(肺結核)で三年ほど寝たきりで、従軍は認められませんでした。
しかし数馬は杖の代わりに槍にすがり従軍を懇願し、遂に同行を許されます。
その姿は「諸人落涙してこれを止む。聞かず、誠忠真に無二の士というべし」と記されています。
諏訪数馬の最期
4月8日に安房館山領長須村の来福寺付近に宿陣しました。
雨の中、伊庭八郎が小船を出して軍艦大江丸に漕ぎ着け、伊豆真鶴への出航を依頼します。
この時は豪雨であった為、10日に乗船することとなりました。
しかし既に歩行すらままならない状態であった数馬は、足手まといになることを恐れて自害を決意します。
4月9日朝、忠崇の介錯のもと、数馬は自らその生涯を終えました。
享年33歳。
戒名は恵光院善忠元鑑居士として来福寺に埋葬されました。
その後の忠崇
明治30年に忠崇が諏訪家に対し、数馬の肖像画と略伝を書いた掛軸を贈っています。
忠崇は絵が得意だったようです。
また、数馬への歌も詠んでいます。
散りてのみ ふかきかほりの いまもなほ
残るや花の なさけなるらん
藩主の林忠崇も熱い男でしたが、諏訪数馬も忠義を貫いた男だったんですね。
請西藩屋敷跡