【上野公園】西郷隆盛像の近くにお墓がある理由!彰義隊とは

みなさんは上野公園といえば何を思い浮かべるでしょうか。
上野動物園や上野東照宮、西郷隆盛像の他にも美術館や博物館など、広大な敷地内に多くの観光スポットがありますよね。

特に西郷隆盛像は写真を撮る観光客が多い場所です。

 

しかし、その西郷隆盛像のすぐ近くにお墓があるのはご存知でしょうか。


上野公園を訪れたことのある人でも、お墓には気がつかなかった人も多いかと思います。

 

西郷隆盛像とは違い、近くにあるそのお墓はあまり注目されることもなく閑散としています。
しかし、実はそのお墓と西郷隆盛像は深く関係しているのです。

 

これから上野公園へ観光に行かれる方は、ぜひこの記事を一読してから訪れて頂きたいです。

 

 

西郷隆盛像のそばにある墓

    f:id:karu_miburo:20190310101853j:plain 西郷隆盛像/上野恩賜公園

上野公園のシンボルのひとつである西郷隆盛像。犬を連れた彼の銅像は誰もが目にしたことがありますよね。

 

その銅像の裏側、木々に囲まれた場所にそのお墓はあります。

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立派なお墓ですよね。
それなりに目立つ大きさですが、木陰になっている為、あまり目につかないというのもあるかもしれません。

時々、このお墓に関する案内板を読んでいる観光客の方も見かけますが、もともと知っていて訪れる人は少ないように思います。


このお墓ですが、実際に遺骨が埋葬されているわけではありません。
慰霊碑としてのお墓です。

 

そしてこのお墓に祀られているのは、
上野戦争で犠牲になった彰義隊の方々です。

 

会津の白虎隊は有名ですが、彰義隊をご存知の方は少ないですよね。
知っているというあなたはかなりの幕末好きなのではないでしょうか。

 

彰義隊

彰義隊は幕末に結成された佐幕派の部隊です。

 

慶応4 (1868) 年2月、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、上野の寛永寺で謹慎していました。

同月12日、旧一橋(ひとつばし)家の家臣17名が江戸雑司谷(ぞうしがや)で慶喜の復権と薩摩の討伐を協議し、賛同者を得て尊王恭順有志会を結成します。

23日、結成式を行った際に阿部杖策の発案を受け、「大義を彰(あきら)かにする」という意味を込めて隊名を彰義隊とます。

頭取を渋沢成一郎(しぶさわ せいいちろう)、副頭取を天野八郎(あまの はちろう) として屯所を浅草の本願寺に置きました。

 

徳川家は彰義隊を公認し、江戸市中警衛を命じます。

3月末には千名を超え、彰義隊は慶喜の護衛を名目として屯所を上野に移転しました。

 

しかし江戸城無血開城が行われ、徳川慶喜は恭順の意思を示し、水戸へ去ることになります。

これは事実上の追放でした。

やがて彰義隊の中には徳川慶喜の恭順の姿勢に納得できない者が出てきて、組織は分裂します。

 

恭順に納得できない者たちは反政府思想を強め、寛永寺貫主を兼ねていた日光輪王寺門跡公現入道親王を擁し、徳川家霊廟の守護を名目として留まります。

他の脱藩者たちも参加して、多い時で4000人近い人数になるなど大所帯となりました。

 

彰義隊は解散命令も聞き入れず、渋沢成一郎は隊から離脱するものの、残った彰義隊士は新政府軍との対立を深めていきます。 

 

上野戦争

当初、長州藩の大村益次郎を総指揮者とする東征軍は軍資金不足から衝突を見送っていましたが、三条実美(さんじょう さねとみ)と大村益次郎(おおむら ますじろう)の江戸着任後、武装解除にも応じない彰義隊の討伐を決意します。

 

5月15日、遂に新政府軍は大村の指揮のもと、上野寛永寺周辺にたてこもる彰義隊を包囲して総攻撃しました。

これが上野戦争です。

 

雨の中の激しい戦いでしたが、午前中は彰義隊が優勢でした。

しかし午後、新政府軍はアームストロング砲による砲撃を行い、勝負は決しました。

わずか一日で戦闘が終わった為、亡くなった方は他の戦争に比べても少なかったのですが、

それでも彰義隊は260名以上、新政府軍も100名ほどの犠牲者が出ています。

 

一度は彰義隊から離脱した渋沢成一郎が率いていた振武軍も、彰義隊に加勢しようとしました。

しかし上野までの道の途中で彰義隊の敗北を聞き、逃げる隊士らと合流して退却しました。

 

この上野戦争により彰義隊は壊滅しましたが、彰義隊の一部の生存者は東北地方に逃走し、箱館戦争にまで参加した者もいます。

 

新選組の原田左之助と彰義隊

原田左之助は甲州勝沼の戦いまで新選組(当時は甲陽鎮撫隊)として参加していましたが、局長の近藤勇と対立し、同じく隊士の永倉新八らと共に新選組を脱退しました。

 

その後、永倉らと靖兵隊を結成しますが、原田は「用事を思い出した」と言って、山崎宿(現在の千葉県野田市山崎)にて靖兵隊を離れます。

 

永倉新八は後年、原田は京に残した妻子が心配だったのだろうと語っています。

原田は鳥羽伏見の戦いの直前、新選組が伏見に布陣するにあたり出発の前日に妻・まさに当座の資金として200両という大金を渡しましたが、この時まさのお腹には第2子が宿っており、もう今日明日にも生まれるかというほどでした。

その為、永倉は妻子への未練だと思ったようですが、原田の内心は分からないものの、実際は彰義隊とともに上野戦争に参加していたようです。

 

原田左之助の妻・まさは、原田と別れたわずか5日後に第2子を出産しました。

しかし戦争の最中、落ち着ける状況でもなく、生まれた子はまもなく亡くなってしまいました。

亡くなったその子は「禅雪童子(ぜんせつどうじ)」という戒名を授けられ、まさはその事をなんとか夫に伝えたいと思っていましたが、戦争の混乱で夫がどこにいるのかさえ分かりませんでした。


しかし明治になり、元新選組の岸島芳太郎という人物がまさの元を訪れ、原田は江戸で彰義隊の戦に参加し、その時の鉄砲傷がもとで2日後の5月17日に亡くなったと告げました。享年29歳でした。


まさは夫の墓がどこにあるのか知りたかったようですが、原田がどこに埋葬されたのかは現在も分かっていません。

また、彰義隊に参加したのが遅かった為、彰義隊の名簿に原田の名前は載っていないそうです。

 

ちなみに原田には、実は生きていて中国に渡って馬賊の頭目になったという伝説もあります。

 

西郷隆盛像の設置

西郷隆盛は西南戦争により逆賊となっていましたが、後に明治維新の功績が評価され、

明治天皇によって名誉回復が実現しました。

それを受け、西郷隆盛と同じ薩摩藩出身の人達が西郷の銅像の建設計画を立てます。

 

上野での彰義隊との戦いを指揮したのが西郷隆盛でした。

その為、新政府軍を勝利に導いた功績を讃える為に彼の銅像が上野に建立されました。

現在も銅像がある場所は、上野戦争において西郷が指揮をとって彰義隊へ攻め込んだ場所であると言われています。 

 

彰義隊の墓の建造

 上野戦争の後、彰義隊の犠牲者は何日も野ざらしにされました。

徳川家の菩提寺である増上寺や縁のある人物が引き取りと供養を申し出ても、許さることはありませんでした。

 

見るに見かねて、寛永寺の御用商人である三河屋幸三郎が金を出し、荼毘(だび)にしたそうです。隊士の遺骨は円通寺に埋葬されました。

 

しかし逆賊とされた彼らを表立って供養することはできず、ようやく明治政府から供養の許可が出たのは明治7(1874)年のことでした。

 

元彰義隊士であった小川興郷等の尽力により、翌明治8年、上野に彰義隊の墓が建立されました。

現在、上野の彰義隊の墓がある場所は彰義隊士が火葬された場所です。

 

墓の建立は許されたものの、当時はまだ「彰義隊」と刻むことは憚られた為、

上野公園の墓碑銘には山岡鉄舟により「戦死之墓」と刻まれています。

 

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まとめ

 

上野戦争で犠牲になった彰義隊の墓のすぐそばに、
上野戦争での功績を称えて設置された西郷隆盛像。

 

上野公園には、そんな敗者と勝者の歴史があるのです。

 

人々の集まる西郷隆盛像のすぐそばで、彰義隊の青年たちは安らかに眠ることができているのでしょうか。

 

上野公園には様々な観光スポットがありますが、これから訪れる方は、ぜひ彰義隊のお墓もお参りしてあげてください。

 

そこであった歴史を知ることは、徳川家ゆかりの地である上野で最後まで抵抗して散っていった彼らに対し、現代の私たちができる供養のひとつであると思います。

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